下町に花開いたレビューの殿堂 浅草国際劇場

 かつて宝塚歌劇団とその人気を競った松竹歌劇団。通称「SKD」ということを知る人もだんだん少なくなってきた。大阪に松竹座が会場した時に「松竹楽劇部」という男女混合の出演者でショーをやるグループが誕生。やがて東京にも楽劇部が作られ、水ノ江滝子(愛称「ターキー」)が短髪の男装で一躍スターになり、やがて女性だけでレビューをやる「松竹少女歌劇団」になってゆく。(大阪の楽劇部は大阪松竹歌劇団(OSK)となる。)その松竹少女歌劇団のホームグランドとして昭和12年に建てられたのが浅草国際劇場であった。初期の頃は収容人員5000人ともいわれ、舞台の間口が15間という、宝塚大劇場よりも一回り広いステージに最盛期は250人の出演者で豪華なレビューがくり広げられていたのである。

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 女性が男役もやる「女性だけの劇団」として、宝塚と比較される対象であったが、その興行形態はまったく違っていた。宝塚が芝居物とレビューの2本立てが基本であったのに対し、SKDは初期の頃こそオペレッタ的な作品もあったが、基本は90分ぐらいのレビューだけで、松竹の封切映画作品が付いてきた。これはアメリカの映画館が「アトラクション」と呼ばれるステージショーと映画をセットで見せる興行形態が主流だった時代があり、そのもっとも有名な劇場がニューヨークにあるラジオシティーミュージックホールであったので、当時の松竹がそれをお手本にしたと考えられる。国際劇場の入り口の上には「松竹映画、豪華実演」という看板もあった。この映画と実演の興行形態は日本劇場(通称「日劇」)も同じであった。「歌舞伎踊り」(のにち「春のおどり」)、「東京踊り」「夏の踊り」「秋の踊り」の4大踊り(後に春はなくなり3大踊りになる)が基本で、各公演2ヶ月ぐらい上演されていた。「東京踊り」は一番予算をかけた舞台が売りで、「夏の踊り」は舞台で本物の水を使い、フィナーレに大きな滝や噴水が登場して涼味を演出。「秋の踊り」は芸術性を重視した公演となっていた。

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 どの作品でも国際の大きな舞台を活かした豪華なセットが売りでもあった。特にセットデザイナーの三林亮太郎氏のデザインが素晴らしかった。
 その松竹レビューの名物のひとつに「屋台崩し」があった。20分ぐらいの短いストーリーの場面があり(たいがいは和物)、クライマックスにお城などが火事になる設定で、綺麗な城内や宮廷の建物がどんどん崩れていく様子を、実際の火をつかわずに見せるスペクタクルであった。
 一列に並んで足を上げる「ラインダンス」もレビューには欠かせない。SKDでは通称「アトミック・ガールズ」と呼ばれ売りの一つであった。宝塚が「ロケット」と呼び、フィナーレ前に登場するが、松竹レビューでは中詰めあたりに登場させていた。宝塚とちがうもう一つの特徴はタップシューズを履いて踊っていたことにある。足を下ろす度に音がするのはとても効果的であった。

そしてステージいっぱいに「これでもか!」というぐらいの電飾と階段、吊り物の飾りで舞台を埋め尽くすフィナーレは圧巻で、そのゴテゴテ感は半端なく、これを見た後に宝塚をみると、なんと質素に感じた事か。ある意味洗練されていないとも言えなくはないが、逆にあれを越える豪華なフィナーレは世界を見回してもいまだにないといっても過言ではない。
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そんな国際劇場での松竹レビューが廃れていった理由はいくつか考えられる。昭和40年代後半から50年代前半はSKDに限らず、宝塚も日劇もレビューではお客が入らない時代を迎えていた。セットや衣装、多くの人間を必要とするレビュー興行は赤字が続いていた。そんな時、宝塚は昭和49年に「ベルサイユのばら」の大ヒットで成功して、その苦しい時代を乗り切ったのである。SKDも宝塚と同じような芝居とレビューの興行形態を試みようと「カルメン」「銀河鉄道999」「火の鳥」などを上演したが、ミュージカルの基盤がないSKDはあまり成功しなかった。
 宝塚が4組(現在は5組)あり、各組にトップスターがいて、数年でトップが入れ替わるという「スターの新陳代謝」がよいのに対し、SKDは幹部とよばれるトップがずっと入れ替わらなかったのも人気が低迷した原因かもしれない。
 また、宝塚が「清く正しく美しく」のモットーで、品格を重んじたところも女性に受け入れられたところだと思うが、松竹レビューはあくまでも「観光地のレビュー」であった。はとバスで来る修学旅行生や海外からの観光客を意識した内容であった為、大衆娯楽的要素が根底に根付いていたのである。
 理由はともあれ、松竹はSKDのホームグランドであった浅草国際劇場を1982年に閉鎖した。以後、SKDは歌舞伎座などの劇場で公演を続けたが、国際劇場ほどの規模では公演はできず、1990年の「東京踊り」でレビュー興行を終了し、以後ミュージカル劇団を目指すとされたが、最後は16名となり、1996年で松竹歌劇団は解散となった。
 1985年に浅草ビューホテルがオープン。かつてその場所で、日本一豪華絢爛なレビューの舞台がくり広げられていたことをここに記しておこう。

「42nd Street」的なミュージカルの組み立て方

1980年にブロードウェイで大ヒットした作品の一つに「42nd Street」があります。2001年にリバイバル上演もされ、日本でも東宝が舞台化して元宝塚の涼風真世が主演しました。
 それまでブロードウェイのステージでヒットした作品をのちに映画化するというパターンが一般的でしたが、この「42nd Street」は1933年の映画を舞台化した作品で、以後、ムービーミュージカルの舞台化というパターンが定着していきました。今回はそのアダプテーションの仕方について注目していきましょう。

 1933年に大ヒットしたミュージカル映画「42nd Street」は、田舎からブロードウェイに来たペギー・ソーヤがコーラスガールから、主演スターの代役を見事にこなすまでのストーリーで、プロデューサーの苦悩やショーの出資者、コーラスダンサーたちの舞台裏が描かれています。映画がヒットした大きな要因は、バズビー・バークレーが創造したミュージカルナンバーで、舞台の設定でありながら、空間を超越した展開で映画でしか見られないような映像を作り上げました。「バークレー・ショット」と呼ばれる、ダンサーを回り舞台に並べ上から撮影した万華鏡のようなビジュアルは、その後も定番となっていきます。そしてワーナーブラザーズはこの作品以後、同じようなミュージカル作品を沢山制作していきました。

 さて、1980年の舞台化された作品とオリジナルの映画との違いは、まずミュージカルナンバーの数にあります。古いミュージカル映画の上映時間は90分前後。一方ステージミュージカルは1部、2部合わせて2時間半ぐらいが一般的で、映画版よりも1時間長い。映画では主に3つのミュージカルナンバーが見せ場になっていましたが、舞台では当然それだけでは足らない。よってミュージカルナンバーを増やす必要があり、バズビー・バークレーが創造した他の映画で、「42nd Street」と同じ作詞アル・デュービン、作曲ハリー・ウォーレンの曲を寄せ集めてくることになります。たとえば舞台版の「We’re in the money」「The Shadow Waltz」は映画「Gold Diggers of 1933」の為に書かれた曲、「I Only Have Eyes For You」 「Dames」 は1934年の 「Dames」から、「Lullaby of Broadway」は「Gold Diggers of 1935」、「Go Into Your Dance」は1935年の「Go Into Your Dance」から借りてきた次第であります。これによって、映画の為に書かれた一つのストーリーを基盤にして、同じ作曲者の他の作品からの曲を借りて2時間半の作品に仕上げるという「寄せ集めリメイクミュージカル」が誕生したわけです。1992年のヒットで劇団四季のレパートリーになっている「Crazy For You」は舞台から映画になった「Girl Crazy」のストーリーを元に、ジョージ・ガーシュインの他のミュージカルからの曲を詰め込んで作り変えた作品。日本でも上演された「Never Gonna Dance」はアステアの「有頂天時代」を基盤にジェローム・カーンの他の曲を付け足して作った作品、「雨に歌えば」や最近の「巴里のアメリカ人」も同じ作り方だといえる。オリジナルの映画で使われている曲でも、舞台版では設定を変えて使われていることもあります。映画板に馴染んでいる人が舞台版を見ると、付け足したナンバーに違和感を感じる事があり、また舞台版から映画版を見ると、物足りなさを感じたりします。ともあれ、映画で容易にできた展開をどう舞台で表現するか、そのアイディアやセンスを見出すのも、映画を舞台化したミュージカルを楽しむポイントなのかもしれません。

参考資料
舞台版「42nd Street」で使われた他の映画からのミュージカルナンバー

We’re In The Money (Gold Diggers of 1933)

The Shadow Waltz (Gold Diggers of 1933)

Lullaby of Broadway (Gold Diggers of 1935)