現在、有楽町マリオンがある場所に、かつて日本のショービジネスのメッカであった大劇場があったことを知る人も少なくなってきた。その名は「日本劇場」。通称「日劇(ニチゲキ)」と呼ばれ一般大衆に親しまれていた。通りに面した正面が半円状になった独特のデザインで有楽町のシンボル的な建物でもあった。
開場は昭和8年12月で、日本映画劇場株式会社が開業したが、すぐに営業不振で、最終的に東宝が運営に乗り出し軌道にのった。基本は高級映画館であったが、ニューヨークにあるラジオシティーミュージックホールのようにステージショーと映画がセットの興行形態が基本であった。実業家で興行師だった秦豊吉の指揮の元に日劇ダンシングチーム(通称NDT)が結成され、戦前からレビューが上演されるようになる。宝塚歌劇団、松竹歌劇団(SKD)などが女性のみの団員で構成されていたのに対しNDTは男女混合の舞踊団であった。
戦争中は「東宝舞踊隊」と名称を変え、戦時色の濃い内容のレビューをおこなっていたが、戦後は「春のおどり」「夏のおどり」「秋のおどり」の三大レビューを恒例として昭和40年代頃まで人気を博していた。
チームにはダンスナンバーのメインを張る幹部はいたが、宝塚のようなトップスター扱いはなく、雪村いずみ、ペギー葉山など有名な歌手をゲストに招くのが日劇レビューのスタイルであった。内容は松竹歌劇団と似ていて、日本物から洋舞、民族舞踊まで幅広く、ラインダンスも売りの一つであった。
男性のダンサーがいる為、かなり高度なリフトが多用され、女性だけのレビューにはない迫力もあった。日劇の5階にあった日劇小劇場は戦後改装され日劇ミュージックホールという高級ヌード劇場として再開。大人のレビューを上演していた。
日劇の舞台は東京宝塚劇場や浅草国際劇場に比べると間口や奥行きもなく狭かった。回り舞台などもないかわりに舞台前面に大セリがあり、舞台が下がると横から蓋をするようにスライディングしてくるステージがあったのが特徴的であった。昭和30年代にはそのセリにプールを作り、水中バレエも試みたことがある。全盛期には250人を越える団員が舞台いっぱいに並び、まさにグランドレビューをくり広げていた。
レビュー興行の合間には有名歌手のリサイタルなどがおこなわれ、日劇の舞台に出る事は一流芸能人のステイタスであった。戦後、アメリカが日劇を進駐軍専用の劇場にするため接収を要求したが、東宝はかわりに東京宝塚劇場を提供して、10年間「アニーパイルシアター」として使用された。それだけ日劇は国民の娯楽のメッカであったということである。
昭和50年代に入ると娯楽の多様化でレビューは人気がなくなり、セットや衣装、大勢の出演者を必要とするその舞台芸術は経営困難に陥る。唯一その境地から抜け出したのが宝塚歌劇団で、ベルサイユのばらのヒットで活気を取り戻していく。レビューよりミュージカルの需要があると考えたNDTとSKDも、それぞれミュージカルを試みるが、本来レビューのみを上演してきたので成功せず、日劇は昭和53年でレビュー興行を中止し、昭和56年に地域の再開発を理由に取り壊された。同時にNDTは正式に解散になった。
日本のショーダンスはこの日劇で花開いたと言っても過言ではない。特に男性ダンサーが一流のプロとして活躍できる場所は限られていた。ジャニーズのように歌手が踊るようになるのは昭和40年代ぐらいからで、それまでは日劇が男性ダンサーの活躍の場所であったことはまちがいない。
「おヒョイさん」の愛称で知られる藤村俊二、マツケンサンバで知られる真島茂樹もNDT出身である。日本のダンスの歴史を語る上で忘れてはならない日劇の存在をここに記しておく。