ミュージカルの仕掛け

ミュージカルというものは、ストーリーの中の感情を歌や踊りで表現するファンタジーであると言える。そんなミュージカルが嫌いな人は、突然歌ったり踊ったりする事に違和感を感じるようである。

リアリティーを求めている人にとっては無理もないが、もしかしたらいいミュージカルを見た事がない可能性もある。

 

ミュージカルという舞台表現を根本的に理解していない人が作ったミュージカルや、アマチュア劇団、市民ミュージカル的なレベルになると、ほんとうに突然歌いだすような演出、芝居に歌を入れました的な作品を見せられる事が少なくないからである。

 

芝居からいかにスムーズに歌や踊りに移行していくかがミュージカルの要であり、そのセンスが問われるところである。そんなミュージカルシーンのつなげ方の素晴らしい例をいくつか見ていこう。

 

ミュージカル映画の名作であり舞台化もされている「雨に歌えば」の一番有名なジーン・ケリーの「Singin’ In The Rain」のナンバーの入り方を検証してみましょう。

ケリーは無声映画のスターで、トーキーの時代に入り、初の台詞入りの映画に主演するが、プレビューで酷評を得て映画スターとしての地位を失うと嘆いている時、親友のコズモとキャッシーと共に映画を救うアイディアを思いつき、希望の光が見えてくるところまでストーリーは来ている。

 

いつの間にか恋心も芽生えていたキャッシーと玄関でおやすみのキスを交わす。バックにはBGMがすでに流れムードをかもし出している。すべてが順調に思えて、夢見心地の彼は歩きたい気分になり、待たせてあった自動車を追い払い、傘をさしながら雨の通りを歩き出す。ここですでに自然に歩くテンポがリズムにはまっているのである。(でもいきなり踊りださない。)そしてBGMからそのまま流れている音楽がイントロとなり、ジーンが浮かれて「ドゥリドゥドゥ~」と口ずさむ歌が始まり、イントロのアクセントで「もう傘なんていらないよ。雨に濡れることさえ最高さ!」と傘をとじて、ここで歌になる。

 

本来なら服が濡れて気持ち悪いようなシチュエーションを幸せな気持ちを歌に乗せて、まるで気持ちよさそうに雨の中をさまようケリー。2コーラス目になり少しずつステップが入ってきて踊りの要素が入ってくる。そして間奏でタップのステップが際立ってくる。つまりダンスになるまでこれだけの段階と感情の盛り上げ方を上手に繋げていると言える。

 

気持ちが盛り上がり、ジーンは水溜りを蹴飛ばし大暴れして、このナンバーのテンションが最高潮に達した時、警官に目をつけられ我に返る。そして静かに夜の街の中に消えていって終わる。このように演出的にこの流れを追ってこのナンバーを見返してみると、実に上手くできていることが良くわかるであろう。芝居からミュージカルナンバーへの導入の仕方としては最高の例であると思う。

 

もう一つ例を見ていこう。フレッド・アステア主演の「恋愛準決勝戦」というMGM作品で、アステアが部屋の壁を伝わって踊りまわる有名なナンバーである。


やはりある女性に恋をしたアステアはホテルの部屋に戻るところからこのナンバーは始まる。彼女の写真を眺めながらのバース部分の歌は心の感情を表していて口は動いていない。そして軽快なテンポになるとアステアが彼女をたたえて歌いだす。ホテルの部屋の中で動き回りながら歌った後に

 

踊り始める。そしてソファーの上に駆け上がったかと思うといきなり壁に張り付くように横になる。注目すべきはやはりこの非現実的な状況になるまでの流れである。ホテルの部屋に入ってすぐには歌いださない。彼女の事が頭から離れない様子が伺える。そして歌の出だしは心の声にしている事で、その前の演技から自然に歌に移行することに成功している。テンポが軽快になってからは心が浮き立つようなメロディーで恋するワクワク感で歌から踊りへと、ここの流れもきれいである。もうこの時点で有頂天になったアステアの心情は出来上がっているので、恋をした勢いで信じられない事をやっても観客が素直に受け止めることができるのである。

 

どちらのナンバーも普通に見ていると、ごく当たり前の事のように見逃してしまうが、実は優秀な演出(映画では監督)と音楽と振付によって計算され、すべてが上手くいった時にはじめてミュージカルで歌ったり踊ったりすることが自然に感じられるのだと思う。

スペシャリティーパフォーマーの魅力

1940年代から1950年代にかけてハリウッドでは実に多くのミュージカル映画が制作された。今でも名作として残る「雨に唄えば」「巴里のアメリカ人」などもあるが、実はもっと娯楽性を重視した軽いエンターテイメント作品が多かったのである。ストーリーは「Boy meets Girl」と言われる、いわゆる主人公の男と女が出会い、恋に落ち、誤解が生じるが、最後はハッピーエンドというパターンである。つまり物語りは重要ではなく、その中で見せる歌や踊りが売りであった。

 

家庭で気軽にヴァラエティー番組が見られるようになり、映画産業を脅かすようになる1950年代中頃前までは、映画が娯楽の王様であり、人々は毎週のように映画館に足を運んだ。つまり軽い内容のミュージカル映画がテレビの娯楽番組的な役割を担っていたと言える。

さて、主演スターの歌や踊りのミュージカルシーン以外に、有名な歌手、ダンサー、芸人などをゲスト出演させることがよくあった。

それらは「スペシャリティー(Speciality)」と呼ばれた。彼らは映画のストーリーに関係ないことが多かった。よくあるパターンは主人公がナイトクラブや劇場に行き、そこでショーを見ているという設定であった。

歌手でいうとリナ・ホーン(Lena Horne)が典型的なスペシャリティーであった。彼女はMGMと専属契約をかわし、多くのミュージカル映画にゲスト出演した。容姿端麗で歌のうまい彼女がゲスト出演していると、ちょっと得した気持ちにもなる。

リナ・ホーン Brazillian Boogie (Broadway Rhythm)MGM1943年

ダンサーではニコラス・ブラザーズが筆頭であった。歌とタップと度肝を抜くアクロバットで、その映画自体はつまらなくても、彼らの場面だけ見ごたえがあるといったことも多かった。しかし黒人パフォーマーをスペシャリティー扱いにするのは別の理由もあった。それは黒人差別が激しい南部などでそれらの作品を上映する時、彼らの場面はカットされたのである。物語にからんでいないので割愛するのに都合がよかったのである。

ニコラスブラザーズ I’ve got a gal in Kalamazoo(Orchestra Wives)Fox1942年

しかし重要なのは、それらの素晴らしいパフォーマンスがフィルムに残されたということである。そのおかげで半世紀前の歌や踊りがリストアされて鮮やかに蘇ってくる。時代を超えて再評価される当時のB級ミュージカル映画の真のスターは主役よりもスペシャリティーたちであったりする。

ロス・シスターズ Solid Potato Salad (Broadway Rhythm)MGM1943年

ベーリーブラザーズ (Panama Hattie)MGM1942年

カーテン前を勤める実力

どこかで「幕前芸人」という言葉を耳にしたことがある。豪華なセットに大勢のダンサーを使った場面が終わり、舞台転換をする間、幕の前で演じるパフォーマーのことである。これだけだとただの「場繋ぎ」の為のどうでもいい場面のように思えるが、実はこの幕前こそ実力が問われる重要なポジションであったりする。古くはヴォードビルの舞台や、レビューの世界ではこの幕前が芸人の腕の見せ所になっていたのである。

舞台転換のため、中割り幕は舞台の前方にあるので演じるスペースもあまりないことが多い。この質素な状態で次の舞台の準備ができるまでの間、お客のテンションを落とさずに次に繋いでいくには、パフォーマーの魅力がなくては勤まらない、ある意味一番過酷な出番なのかもしれない。

アメリカのヴォードビルは1880年代から1930年代ぐらいまで栄えた寄席劇場で、歌や踊り、小芝居に曲芸など、いろんな出し物が見られるヴァラエティーショーであった。あいにくその時代はまだ映像技術が発達していなかったので資料が少ないが、そのヴォードビルが衰退する原因になったトーキーが主流になるとミュージカル映画が作られるようになり、ヴォードビルの時代を題材にした映画が沢山作られ、そのヴォードビルの幕前芸人の雰囲気がわかる映像がけっこうある。

日本でこの幕前の演出を巧みに活かした舞台芸術を宝塚のレビューのスタイルにも見受ける事ができる。宝塚こそ、その大きなステージで豪華絢爛なセットの場面があるので、どうしても幕前が必要になる。傑作レビューを多数手がけた演出家、故小原弘稔のレビュー作品では、かならずカーテン前で若手スター候補たちや、スターに場を勤めさせるチャンスを与えていた。カーテン前を充実させることができたら一人前になった証拠でもあったのである。

芸の実力を見せるだけなら舞台前面を使った素舞台でも同じことであるのだが、幕が閉まっていた方がなぜか魅力的であったりする。ひとつはエリアが狭いほうが、そのパフォーマーの芸に集中できるからであろう。それと、次の大きな見せ場が控えているという期待感もあるからかもしれない。

「Folies-Bergère」1935年

フランス出身で、アメリカでも人気のあった歌手、モーリス・シュバリエの歌。映画タイトルの後、登場するシーンで、彼の個性あるキャラクターが際立っている。

「Tin Pan Alley」1940年

ハリウッドで人気のあったベティー・グレイブルとアリス・フェイの歌と踊り。幕前で踊る小粋なタップダンスが軽くていい。スター性がなければ勤まらない場面である。

「Mother Wore Tights」1947年

ダン・デイリーとベティー・グレイブルのダンスナンバー。ソングアンドダンスマンは幕前芸人の見せ場であった。

「Ed Sullivan Show」 1950年代

テレビのバラエティーショーでもヴォードビルの流れが取り入れられていて、セットなどない幕前で芸を披露するエンターティナーが多かった。この タップダンサーはWalter Long。

「宝塚レビュー90」

前景の大きなナンバーが終わり、舞台転換の為に紫苑ゆうがカーテン前に登場。銀橋を渡りながら、彼女のオーラで観客を次の場面に繋いでいく。

陸の竜宮 日本劇場

日本劇場(日劇)現在、有楽町マリオンがある場所に、かつて日本のショービジネスのメッカであった大劇場があったことを知る人も少なくなってきた。その名は「日本劇場」。通称「日劇(ニチゲキ)」と呼ばれ一般大衆に親しまれていた。通りに面した正面が半円状になった独特のデザインで有楽町のシンボル的な建物でもあった。

 

開場は昭和8年12月で、日本映画劇場株式会社が開業したが、すぐに営業不振で、最終的に東宝が運営に乗り出し軌道にのった。基本は高級映画館であったが、ニューヨークにあるラジオシティーミュージックホールのようにステージショーと映画がセットの興行形態が基本であった。実業家で興行師だった秦豊吉の指揮の元に日劇ダンシングチーム(通称NDT)が結成され、戦前からレビューが上演されるようになる。宝塚歌劇団、松竹歌劇団(SKD)などが女性のみの団員で構成されていたのに対しNDTは男女混合の舞踊団であった。

日劇戦争中は「東宝舞踊隊」と名称を変え、戦時色の濃い内容のレビューをおこなっていたが、戦後は「春のおどり」「夏のおどり」「秋のおどり」の三大レビューを恒例として昭和40年代頃まで人気を博していた。

チームにはダンスナンバーのメインを張る幹部はいたが、宝塚のようなトップスター扱いはなく、雪村いずみ、ペギー葉山など有名な歌手をゲストに招くのが日劇レビューのスタイルであった。内容は松竹歌劇団と似ていて、日本物から洋舞、民族舞踊まで幅広く、ラインダンスも売りの一つであった。

男性のダンサーがいる為、かなり高度なリフトが多用され、女性だけのレビューにはない迫力もあった。日劇の5階にあった日劇小劇場は戦後改装され日劇ミュージックホールという高級ヌード劇場として再開。大人のレビューを上演していた。

120103_135606_import 日劇の舞台は東京宝塚劇場や浅草国際劇場に比べると間口や奥行きもなく狭かった。回り舞台などもないかわりに舞台前面に大セリがあり、舞台が下がると横から蓋をするようにスライディングしてくるステージがあったのが特徴的であった。昭和30年代にはそのセリにプールを作り、水中バレエも試みたことがある。全盛期には250人を越える団員が舞台いっぱいに並び、まさにグランドレビューをくり広げていた。

 

レビュー興行の合間には有名歌手のリサイタルなどがおこなわれ、日劇の舞台に出る事は一流芸能人のステイタスであった。戦後、アメリカが日劇を進駐軍専用の劇場にするため接収を要求したが、東宝はかわりに東京宝塚劇場を提供して、10年間「アニーパイルシアター」として使用された。それだけ日劇は国民の娯楽のメッカであったということである。

 

120103_141646_import昭和50年代に入ると娯楽の多様化でレビューは人気がなくなり、セットや衣装、大勢の出演者を必要とするその舞台芸術は経営困難に陥る。唯一その境地から抜け出したのが宝塚歌劇団で、ベルサイユのばらのヒットで活気を取り戻していく。レビューよりミュージカルの需要があると考えたNDTとSKDも、それぞれミュージカルを試みるが、本来レビューのみを上演してきたので成功せず、日劇は昭和53年でレビュー興行を中止し、昭和56年に地域の再開発を理由に取り壊された。同時にNDTは正式に解散になった。

120103_141357_import日本のショーダンスはこの日劇で花開いたと言っても過言ではない。特に男性ダンサーが一流のプロとして活躍できる場所は限られていた。ジャニーズのように歌手が踊るようになるのは昭和40年代ぐらいからで、それまでは日劇が男性ダンサーの活躍の場所であったことはまちがいない。

 

 

「おヒョイさん」の愛称で知られる藤村俊二、マツケンサンバで知られる真島茂樹もNDT出身である。日本のダンスの歴史を語る上で忘れてはならない日劇の存在をここに記しておく。

下町に花開いたレビューの殿堂 浅草国際劇場

 かつて宝塚歌劇団とその人気を競った松竹歌劇団。通称「SKD」ということを知る人もだんだん少なくなってきた。大阪に松竹座が会場した時に「松竹楽劇部」という男女混合の出演者でショーをやるグループが誕生。やがて東京にも楽劇部が作られ、水ノ江滝子(愛称「ターキー」)が短髪の男装で一躍スターになり、やがて女性だけでレビューをやる「松竹少女歌劇団」になってゆく。(大阪の楽劇部は大阪松竹歌劇団(OSK)となる。)その松竹少女歌劇団のホームグランドとして昭和12年に建てられたのが浅草国際劇場であった。初期の頃は収容人員5000人ともいわれ、舞台の間口が15間という、宝塚大劇場よりも一回り広いステージに最盛期は250人の出演者で豪華なレビューがくり広げられていたのである。

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 女性が男役もやる「女性だけの劇団」として、宝塚と比較される対象であったが、その興行形態はまったく違っていた。宝塚が芝居物とレビューの2本立てが基本であったのに対し、SKDは初期の頃こそオペレッタ的な作品もあったが、基本は90分ぐらいのレビューだけで、松竹の封切映画作品が付いてきた。これはアメリカの映画館が「アトラクション」と呼ばれるステージショーと映画をセットで見せる興行形態が主流だった時代があり、そのもっとも有名な劇場がニューヨークにあるラジオシティーミュージックホールであったので、当時の松竹がそれをお手本にしたと考えられる。国際劇場の入り口の上には「松竹映画、豪華実演」という看板もあった。この映画と実演の興行形態は日本劇場(通称「日劇」)も同じであった。「歌舞伎踊り」(のにち「春のおどり」)、「東京踊り」「夏の踊り」「秋の踊り」の4大踊り(後に春はなくなり3大踊りになる)が基本で、各公演2ヶ月ぐらい上演されていた。「東京踊り」は一番予算をかけた舞台が売りで、「夏の踊り」は舞台で本物の水を使い、フィナーレに大きな滝や噴水が登場して涼味を演出。「秋の踊り」は芸術性を重視した公演となっていた。

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 どの作品でも国際の大きな舞台を活かした豪華なセットが売りでもあった。特にセットデザイナーの三林亮太郎氏のデザインが素晴らしかった。
 その松竹レビューの名物のひとつに「屋台崩し」があった。20分ぐらいの短いストーリーの場面があり(たいがいは和物)、クライマックスにお城などが火事になる設定で、綺麗な城内や宮廷の建物がどんどん崩れていく様子を、実際の火をつかわずに見せるスペクタクルであった。
 一列に並んで足を上げる「ラインダンス」もレビューには欠かせない。SKDでは通称「アトミック・ガールズ」と呼ばれ売りの一つであった。宝塚が「ロケット」と呼び、フィナーレ前に登場するが、松竹レビューでは中詰めあたりに登場させていた。宝塚とちがうもう一つの特徴はタップシューズを履いて踊っていたことにある。足を下ろす度に音がするのはとても効果的であった。

そしてステージいっぱいに「これでもか!」というぐらいの電飾と階段、吊り物の飾りで舞台を埋め尽くすフィナーレは圧巻で、そのゴテゴテ感は半端なく、これを見た後に宝塚をみると、なんと質素に感じた事か。ある意味洗練されていないとも言えなくはないが、逆にあれを越える豪華なフィナーレは世界を見回してもいまだにないといっても過言ではない。
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そんな国際劇場での松竹レビューが廃れていった理由はいくつか考えられる。昭和40年代後半から50年代前半はSKDに限らず、宝塚も日劇もレビューではお客が入らない時代を迎えていた。セットや衣装、多くの人間を必要とするレビュー興行は赤字が続いていた。そんな時、宝塚は昭和49年に「ベルサイユのばら」の大ヒットで成功して、その苦しい時代を乗り切ったのである。SKDも宝塚と同じような芝居とレビューの興行形態を試みようと「カルメン」「銀河鉄道999」「火の鳥」などを上演したが、ミュージカルの基盤がないSKDはあまり成功しなかった。
 宝塚が4組(現在は5組)あり、各組にトップスターがいて、数年でトップが入れ替わるという「スターの新陳代謝」がよいのに対し、SKDは幹部とよばれるトップがずっと入れ替わらなかったのも人気が低迷した原因かもしれない。
 また、宝塚が「清く正しく美しく」のモットーで、品格を重んじたところも女性に受け入れられたところだと思うが、松竹レビューはあくまでも「観光地のレビュー」であった。はとバスで来る修学旅行生や海外からの観光客を意識した内容であった為、大衆娯楽的要素が根底に根付いていたのである。
 理由はともあれ、松竹はSKDのホームグランドであった浅草国際劇場を1982年に閉鎖した。以後、SKDは歌舞伎座などの劇場で公演を続けたが、国際劇場ほどの規模では公演はできず、1990年の「東京踊り」でレビュー興行を終了し、以後ミュージカル劇団を目指すとされたが、最後は16名となり、1996年で松竹歌劇団は解散となった。
 1985年に浅草ビューホテルがオープン。かつてその場所で、日本一豪華絢爛なレビューの舞台がくり広げられていたことをここに記しておこう。