人種差別の中で光を放ったダンサー  ニコラス・ブラザーズ

1940年代から50年代にかけてのアメリカの娯楽ミュージカル映画には沢山の素晴らしいダンスナンバーが残されています。映画自体はB級でつまらない作品でも、ダンスナンバーは今見ても度肝を抜くようなことも多く、時代を超えて輝いています。

 ニコラス・ブラザーズ(Nicholas Brothers)は黒人の兄弟のタップダンスチームで、1930年代後半から40年代頃までハリウッド映画に多く出演しました。兄のフェイアードFayard (1914~2006) と弟のハロルドHarold (1921~2000)は、子供の頃からニューヨークのハーレムにあったコットンクラブなどで、有名なキャブ・キャロウェイやデューク・エリントン楽団などと共演して、後にハリウッドに招かれます。
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 1930年代にすでに短編映画などに出演していましたが、大手の20世紀フォックスと契約してからメジャーなミュージカル映画に登場し、息を呑むような素晴らしいダンスナンバーを残しました。彼らのスタイルはフラッシュといわれる類で、アクロバティックなテクニックと、独特のリズム感があるタップステップによって構成されています。個性が違う二人ですが、そこは兄弟なので息が合っているのも魅力のひとつです。歌も得意なので、まさにエンターテイナーでした。70年以上前のそれらのダンスナンバーを今見てもまったく見劣りもせず、むしろ彼らを越えるタップダンサーはいないのではないかとさえ思えてきます。
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 そんなニコラス・ブラザースが出演している映画を何本か見ていると、彼らが映画の物語に何も関係していないことが見えてきます。当時のハリウッドのメジャーな映画会社はまだまだ白人社会だったので、黒人の役どころはメイドや召使がお決まりで、それ以外はナイトクラブのシーンなどに芸人として登場して歌や踊りを見せる役どころが多かった。そのようなミュージカルナンバーだけに登場する出演者は「スペシャリティー」と呼ばれていました。日本でいうと「ゲスト出演」的な意味でしょうか。聞こえは悪くないですが、そこには当時の黒人差別が潜んでいたわけです。つまり、差別が強い南部などの地域では、それらのナンバーはカットされて上映されていました。初めからカットしやすいように、物語に関係なく挿入されていたのです。主役がナイトクラブでショーを見ているという設定なら、ショーのナンバーをカットしても物語には影響がないからです。
 たぶん、ニコラス・ブラザーズが出演している映画を最初から最後まで見ても、彼らのナンバーが映画の中の最大のハイライトであり、もっとも見る価値がある部分であるのは明らかなのですが、宣伝ポスターには名前すら出ていないこともありました。
 幸いなのは、それらのダンスナンバーがフィルムに残されていて、DVDソフト化され、つまらない場面をとばして、ダンスナンバーだけを楽しむ事ができることです。今ではニコラス・ブラザーズはタップダンサーの間でレジェンドとして崇められていて、彼らのダンスナンバーも高く評価されています。

参考資料

ニコラス・ブラザーズの最高傑作場面
「Jumpin Jive」(Stormy Weather) 1943

20世紀フォックスで最初にフューチャーされた場面
「Down Argentine Way」 (Down Argentine Way) 1941

歌と最高のタップにアクロバットで見せるナンバー
「I”ve Got a Gal in Kalamazoo 」(Orchestra Wives) 1942

ロバート・アルトンの見えない功績

アグデス・デミル、ボブ・フォッシー、ジェローム・ロビンスなど、世にその存在を示し賞賛を受ける振付氏がいる一方で、あまり取り上げられる事もなく、はっきりした功績が評価されない人物がいる。ロバート・アルトンもそんな中の1人で、今やネット社会で検索すれば何でも情報が入る時代だが、ローバートの事は大雑把なプロフィールだけで、振付師としての詳しい情報や画像が極端に少ない。

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Robert Alton(1902~1957)は、ほとんどの振付師がそうであるように、ブロードウェイの舞台から振付師になり、「Anything Goes」「Du Barry Was A Lady」「Pal Joey」などのヒット作の振付を手がけ、やがてハリウッドに招かれて、MGMなどの大手の映画会社が作るミュージカル映画の振付に携わった。
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一般的にロバートの功績のひとつとして、それまでユニゾンを踊るだけのコーラスダンサーの振付に、ソロのセクションをフューチャーしたり、グループごとに見せ場を作るなどの構成を取り入れたと言われている。またバレエとタップに長けていたので、その両方が活かされているのも振付を見ると理解できる。

ジャック・コールやボブ・フォッシーが、その独特のボディーラングエージで個性を発揮しているのに反して、ロバートの振付には特別な特徴がないように見受けられるが、ペアダンスの振付などを見ていると、その巧みに気持ちよく流れるステージング、計算されたポジションの入れ替わりなどが見事で、それらがあまりにも自然に見えるので、ロバートが特別に評価されない理由ではないかと思う。しかし振付などをする人がみれば、それがいかに難しく、数々のアイディアとセンスの良さが際立っているか理解できると思う。

「イースターパレード」(1948)の中の有名なアン・ミラーの見せ場「Shaking The Blues Away」のナンバーもロバート・アルトンの振付とされている。当然アン・ミラーも振付に携わっていると思うのだが、どこまでがアルトンの振付で、どこがアンなのかの明確なところは推測するのみである。しかしロバートがいたことで、あの名作タップナンバーが仕上がったことは間違いない。

また同じ映画のフレッド・アステアとジュディー・ガーランドの「A Couple of Swells」やジーン・ケリーとジュディーの「踊る海賊」の中の[Be A Crown]のナンバーを見ると、歌に合わせた振りという程度で、振付とはみなされないかもしれないが、そこにもロバートのセンスが活かされているはずで、多くの人がこの名作ナンバーを覚えている影に彼の存在があるのだと思うと、ある意味「職業振付師」として徹していた一面も感じられる。統制の取れた躍動感があるアンサンブルの振付、個人の技量を最大に活かしたソロやデュオのナンバー、ダンスの技量がないスターの歌振りと、オールマイティーに才能を活用した名振付師、ロバート・アルトンの影の功績を意識しながら、映画に残されたそれらの作品をぜひご覧になってみてください。少しず彼のセンスが見えてくると思います。

参考映像リスト
この二つのデュオナンバーを見ると、ロバートの振付のひとつの特徴が見えてくる。

[The Best Things Happen While You’re Dancing] (White Christmas 1954)

[It’s a Lovely Day Today] (Call Me Madam 1953)

ダンスとタップの両方が際立っている振付の例
[Something to Dance About] (Call Me Madam 1953)

[Whewe Did You Learn To Dance] ( I Love Melvin 1953)

[Choreography] (White Christmas 1954)

[Abraham] (White Christmas 1954)

アン・ミラーの最高のタップナンバー
[Shaking The Blues Away] (Easter Parade 1948)

ミュージカルナンバーとして古典的になっているナンバー

[Be A Crown] (The Pirate 1948)

[A Couple of Swells] (Easter Parade 1948)

ロバート・アルトン本人がグレタ・ガルボの相手役で登場する場面
(Two-Faced Woman 1941)

シアターダンスの父  ジャック・コール(JACK COLE)

ミュージカルが好きな人、シアターダンスに興味がある人ならボブ・フォッシーの存在を知らない人はいないでしょう。しかしジャック・コールになると、日本ではフォッシーほどの認知度がないようなので、今回はこの人物にスポットライトを当ててみます。

 

JACK COLE(1911~1974)はアメリカ人の振付師で、1930年代から60年代ぐらいまでブロードウェイとハリウッドで活躍しました。その中で多彩な功績を残しているので、その代表的な特徴を取り上げてみます。

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一番特徴的なのは、インド舞踊、タイ舞踊などのエスニックな要素をジャズダンスに取り入れて、独自のスタイルを確立した事です。民族舞踊というのは、音楽に馴染みがなく、若干見ていて飽きる事がありますが、ジャックはそのボディーランゲージの面白さをジャズなどのノリのいい音楽にのせショーダンスとして確立しました。

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振付の展開が速いので飽きる事がない。それは宝塚が日舞を洋楽で踊り、和物レビューのスタイルを確立した事と似ている。その振付の魅力は「キスメット」という作品の中のダンスナンバーによく現われています。

「キスメット(Kismet)1955年MGM」

ジャックのインド舞踊の要素を取り入れた振付の代表作品

一時期、「ヴォーグ」というダンスが流行りましたが、その元祖的な要素がジャックの振付の中に見受けられます。1カウントごと切り返すように展開する動きの面白さがあり、今みても古さを感じさせません。

「I-Don’t-Care-Girl(日本未公開)1953年Fox」

1カウントずつ切り返すような巧みなジャックの振付。

ブロードウェイの舞台で成功したジャックは、1940年代にハリウッドに招かれました。大手映画会社のコロンビアは、ジャックをコーチにして専属ダンサーの養成をさせました。それまでは、映画会社がダンサーを必要な時だけ集めていましたが、コロンビアは専属ダンサーを持ち、映画出演がない時でもジャックから厳しい訓練を普段から受けていました。

「今宵よ永遠に(Tonight and Every Night)1945年コロンビア」

コロンビアでダンサーを訓練していた頃の映画。主演のリタ・ヘイワースとペアで踊っているのがジャック・コール本人。

ジャックの振付は高度な技術を必要とする反面、ダンサーとして技量があまりない大スターの振付を手がけている事も注目すべきところで、マリリン・モンローの振付にその功績を見る事ができます。ジャックはモンローが魅力的に見えるようなジェスチャーなども指導していたようで、モンローもジャックを信頼していたと言われています。踊れるダンサーをうまくはべらせスターを引き立てるテクニックをジャックはよく心得ていました。アーティストであると同時に職業ダンサーとしての才能もあったと言えます。

「ショーほど素敵な商売はない(There’s No Business Like Show Business)1954年Fox」

まわりのダンサーをうまく踊らせてマリリン・モンローを引き立てていることがわかるナンバー。

ジャック・コールがあまり知られていない原因のひとつに名作がない事があると思います。彼が携わったハリウッドミュージカル映画はB級作品が多い。そして日本未公開作品が多いのも我が国で知られていない理由のひとつでしょう。しかし、たとえB級作品でも、フィルムに彼の素晴らしい振付が残されたことが幸いだと言えます。

 

ビデオカメラなどが普及する前は、ブロードウェイの舞台の振付は、その公演が終わると失われていくのが常でした。1980年代にリー・セオドアがアメリカンダンスマシーン(ADM)というカンパニーを立ち上げ、それらの失われていく名振付を保存してパフォーマンスをする活動を開始し、ジャック・コールの振付も復元していきました。日本にも何度か来日公演を行い、新宿コマ劇場の下にオープンしたシアターアプルの杮落とし公演が、ジャック・コールの振付を集めたミュージカル「JACK」でした。

 

後にボブ・フォッシーと結婚するグエン・バードンはジャックの片腕的存在であったし、マット・マトックスもフランスで亡くなるまでジャックのスタイルを継承し続けました。後のシアターダンスに多大な影響を与えた振付師、ジャック・コールは、後のボブ・フォッシー、ジェローム・ロビンス、マイケル・ベネットなどと共に、シアターダンスの功績者として日本でももっと認知されるべき存在である。